戦国時代、武士階級の間で捕縄術(ほじょうじゅつ)が広まり、江戸時代にはその様式が奉行所に引き継がれる。身分によって異なる縛り方が生み出された捕縄術は、現在の緊縛の基礎となっている。その後、捕縄術は歌舞伎や浮世絵に取り入れられると、後ろ手に縛られる姿から、体の前で両手を縛られる姿が一般的になる。
「緊縛は『他者に観られることでアートに進化していった』というのがマスター“K”の主張です」
40年以上日本の緊縛を研究した米国人マスター“K”の著書『緊縛の文化史』の翻訳を務めた山本規雄氏は、緊縛の芸術への展開をそう解説する。
一方で「緊縛」でエロスを表現するようになったのは大正時代以降である。挿絵画家の伊藤晴雨は、妻をモデルにし、女性を責め/縛る「責め絵」を描き、写真撮影も行なっていた。当時、その様子を週刊誌は「変態性欲者」と罵倒したという。SM・フェティシズム専門図書館「風俗資料館」館長の中原るつ氏に戦前・戦後の緊縛事情を聞いた。
「戦前から戦後にかけて晴雨の私家本を多く手がけた伊藤竹酔は、縛りと責めの愛好家を集めて撮影会を行なっていました。この緊縛写真のごく一部は須磨利之が1950年代に創刊した雑誌『裏窓』にも掲載されました」
第2次世界大戦後、乱造されたカストリ雑誌の中から『奇譚クラブ』が1947年に誕生し、緊縛も挿絵や文章でふんだんに描写された。